幽霊は見ないふり
 顔の見えない人間がそこに立っていてこれは夢だと自覚した。  颯の眠りは短い。眠って何も見えない時間を作るよりもその目で何かを見る時間のほうが有意義に感じるからだ。とはいえ、肉体が必要な分だけの急速は確保しているし、短い分夢も見ないほどに深く深く眠ることができる。いってみればコスパがいいのだ。  宋雲、最近ではエージェントには「睡眠をコストパフォーマンスで換算するな」と怒られたが、そうはいってもいまさら辞めることはできない。記憶がない分、それを取り戻すようにアカデミーやウィズダムで過ごす中でついた癖はどっしりと根を生やしていた。  そんな寝方をしているので颯が夢を見る機会というのは少ない。夢占いというものがあるのだと知った時は少しばかり惜しい気もしたが、見れるかわからない夢で占うよりも目覚めて宋雲に占ってとせがむ方が賢明だ。客との話のネタにもなる。  それに夢は記憶の整理に一役買っているのだという。だとすれば瞬間記憶を持つ颯にとってますます無用な機能だった。  しかしそれでもやはりごく稀に夢を見る時があって、それがまさに今だ。 「えーと、きみ誰?僕の知ってる人?」  それはそうか、とは言えないのが悩ましいところだった。  夢が記憶の整理だというのならば本人が覚えていない、上書きされる前の記憶はその対象に果たして入るのだろうか?  そもそも知っている人間であったとしても顔が見えていないのだ。目の前の人間の顔にあたる部分にはどういう仕組みなのかノイズのような、煙のようなものがかかっている。  それ以外の、個人を特定できるような部位は見えてはいるのになぜか全体の像を結ばない。  点と点を結んでできるはずの図がなにもかもずれているような間隔。  それに夢だからかなぁと颯は首を傾げる。そういうものだと思ってしまうのは簡単だが、なんとなく納得がいかない。 「なんでだろうなぁ」  しげしげと目の前の人物を眺める。ふつうなら失礼にあたるような態度であっても何のためらいもなく行えてしまうのは視線というものが物理的に存在しないからかもしれない。見られているという意識は思っている以上に何に対してもブレーキになる。颯にとっては職業柄という部分もあるかもしれないが。  しかし眺めたところで特に情報が得られるわけではない。どれだけ見ても結局顔は見えないし、全体の印象はわかったと思った瞬間霧散してしまう。 「名前ぐらい教えてくれたら嬉しいけどな?。あ、でも喋れない?」  ざざっと顔の上のノイズが揺らいだ。  喋ったのだとわかったのは本能的な感覚だった。ということはこのノイズの下にはきちんと顔があるのだ。 「どうにかして動かせないのかな?これ」  ノイズがふたたび揺らぐ。ざざざっという特有のノイズ音は「無理だ」と言っているように聞こえた。 「無理かぁ。じゃあ別の他の方法でコミュニケーション取れたら……」  そこではたと気づく。  どうして自分は目の前の知ってるか知らないかも分からない、話せもしない相手と必死に言葉を交わそうとしているのだろう。  退屈だから?夢を見るということが珍しいから?  それとも、正体がわからずとも、あるいは覚えていなくとも言葉を交わしたいと思ってる相手だから?  どれも正解に思えて、どれも不正解に見えた。  眉をよせる颯に目の前の人間から再びじじっとノイズ音。その高低が少なくとも否定的なニュアンスであることを伝える。 「追及するなってこと?それとも夢だから考えたって無駄だって言いたい?」  今度は何の音もかえってこなかった。無言は肯定だと勝手に受け取ることにした。 「そういわれるとかえって気になっちゃうんだけどなぁ。それに記憶力には自信あるから夢から覚めても覚えてると思うし」 「……」 「というか覚えてたいのかも。覚えてさえいればいつか思い出せる気がするんだよね」  突然、目の前の人間が焦ったように颯の肩をつかんだ。わ、と小さく声が漏れた。  つかまれた肩からじっとりと低い体温が伝わる。なにもかもあいまいな夢の中でそれだけが嫌に現実的だった。 「なに?覚えててほしくない?」  肩をつかむ、というよりもすがるように握る手が震えている。  ノイズ音が直接鼓膜を揺らす。意味はなしていないはずのそれがなぜかくっきりと輪郭をもって聞こえ始める。 「――」  名前だ。自分の。ノイズ音に交じって聞こえた人の声はどこかで聞いたことのあるものなのにまるで知らない響きをしている。  誰、ともう一度問おうとして、そこでぶっつりと夢は途絶えた。 「宋雲って夢占いもできる?」 「なんだ突然」 「昨日変な夢見たんだよね。顔のない人が目の前に立っててさぁ」  ウィズダム開店前。いつも通りの他愛のない会話の流れで颯は昨日の夢を宋雲に話すことにした。  ただの夢だろうといわれたかったのかもしれないし、話すことで記憶として残したかったのかもしれないし、単に話したかったのかもしれない。どれかはわからなかった。 「それで最後知ってるけど知らない声で名前を呼ばれた気がしたんだよね。やっぱりあれって……」 「颯」  花の調整をしながらも話に耳を傾けてくれていた宋雲は言葉を止めるようにぴしゃりと名前を呼んだ。 「今からお前が考えるべきことは夢のほうではなく、今から目の前にくる現実のお客様のことだ」 「でもさぁ」 「忘れろとまではお前には難しいだろうからいわないが、どちらが現実かを考えろ」  ぽんと宋雲の手が肩に触れる。一瞬だけ肩に触れた手は確かにこちらいま目の前にある現実なのだということを証拠づけるかのような慣れ親しんだ温度だった。 「……はーい」  宋雲の言うとおりだ。目の前以外のことを考えながら成り立つほど楽な商売ではないし、颯自身の意識にも反する。 「宋雲」 「なんだ?」 「なんでもない、呼んだだけ」 「ほら、準備してこい。颯」  堅くもどこかに柔らかな優しさを残す声が夢の中のノイズ音と声を上書きする。  こっちが現実なのだと手を引っ張られるような心地を頼りに颯は肩にいまだに残る体温もすがるような震えも気が付かないふりをした。