やがて墓標
人間にとって一度体験したことがある「事実」は恐れを生む。
経験したからこそ知っていることがある。知らなければ生まれない恐怖もある。
そういう意味ではいま、仮面ライダーになっているものはどこかしらで「忘れる」ことを恐れているのかも知れない。
「颯」
人間の中で一番に記憶に残り続けるのは香りだという。それは五感の中で嗅覚が唯一脳に直接情報を送ることができるからだという。
開店準備で忙しない中、すれ違った颯に声をかけたのもその香りが記憶の中のものと違ったからだった。
「香水を変えたか?」
「あ、わかった? お客さんからもらったものなんだけどさ」
颯はいつもそうだ。服も香水も、あるいは趣味でさえも他人に沿っている。
自分自身が好んで、というものはあまりない。
ラウンジ勤務という意味では褒められるかもしれないそれを宋雲は恐ろしく感じることもあった。
全てが他人から与えられたものだとして、もし記憶を再び失うことがあれば宋雲は颯のことを思い出せるのだろうか。
「微妙かな? 僕は割と気に入ってるんだけど」
何も言わない宋雲を伺うように颯が長身を屈める。その瞳には間違いなく宋雲への信頼があった。
いや、忘れはしないだろう。颯が宋雲を信じる限り、痛みと後悔はそこにあるのだから。
「お前が気に入っているならいいんじゃないか」
ならよかった!と笑う颯に気が付かれないようにぐっと握り込んだ拳はうっすらと血が滲んでいた。