ここが十九夜目の地獄
 ひんやりとした土のにおいがする。  学園の中にあるような菜園の温かな匂いでも、森の中を歩いているときの静かな匂いでも、街中でふとした瞬間に鼻をくすぐる懐かしさの混じるものではない。  墓土の、死を含んだ匂いだ。  それはべっとりと体のあちこちにまとわりついていく。直接土に触れているわけでもないのに、まるでリィンをこちら側へ引きずり込もうかとしているように。この匂いの中にいたいと思う人間はあまりいないだろう。リィンとて例外ではない。  しかしリィンにはここで確認しなければならないことがあった。だから無表情にひたすらスコップを振るう。柔らかな土を掘って、脇によけ、その繰り返し。ここが墓場である以上、リィンが掘っているのは墓土である。それも、もう誰かがその下で眠っている墓の土。  もしこれが現実だったのならば倫理という枷の下にいるリィンはこんな安らかな眠りを邪魔するような真似をすることもなかった。だがこれは夢だ。クロスベルから帰る列車の中で見ている、夢。それがわかっているからリィンはシャベルを動かす。そうしなければこの夢は覚めることはないのだ。  どうしてこんな夢を見ているのか、理由もわかっている。ありえないものを見たからだ。ありえない、そうありえない。あいつの、クロウ・アームブラストという男はもう死んだのだ。それもリィンの腕の中で、死んだのだ。あの温かだった体温が徐々に失われていく感覚も目の光が虚ろになっていく様も、最後の言葉も、一番間近で見て、聞いて、感じたのはリィン自身だ。クロウは、死んだ。  だからこの墓の下には死体がなくてはならない。安らかな顔をして眠るクロウがいなくてはならない。いくら夢とはいえ、ひどいことをしているのはリィンもよくわかっている。だが確かめなければならない。ああ、あれはクロウではないと、あれは他人の空似であるという保証がほしい。それが夢の中のものであっても構わない。いまはそれでいい。  そうでなければ、リィンは前に進めない。  どれほどまで掘り進めただろう。夢の中だからか、墓は異様なまでに深い。掘っても掘っても棺の端すら見えない、息が上がる。吸い込むたびに肺の奥に死の匂いが入り込む。まるで自分までも死の国にきてしまったようだ。  もし自分が死んだとしてもきっとクロウとは同じところにはいけないな。  そんなことをふと思う。リィンは自分が悪人だとは思ってはいない。しかし天国にいけるような人間だとは思っていない。そこに自分の本意があったかどうかは別として、あまりに人を傷つけてきてしまった。その罪はいずれ裁かれなければならない。それが死んだ後か生きている間かはわからないけれど、どちらであっても天国は自分を迎えてはくれないだろう。  かつ、とシャベルと土ではない堅いものがあたる感触がした。棺桶だ。リィンはシャベルを動かすペースをあげ、土を払いのけるように棺の上からよけていく。やがて漆黒の棺が姿を表した。自分の息の音がやけに耳につく。この死の国で自分だけが異物である証明の音だ。  ひざまずいてゆっくりと棺の蓋をずらしていく。本来なら一人で動かせるような重さのものではないはずだが、さすがにそこは夢らしい。変なところで冷静になる自分がおかしくてリィンはわずかに唇の端をあげた。自嘲にも似た笑い方だったとは気づいていない。  ぎぎ、と音をたてて棺が開く。呼吸が乱れ、また指が震える。それでも蓋は開いていく。そこには。  そこには何もなかった。がらんどうの棺だけがそこにあった。それはつまり、あの仮面の男は。 「――よぉ、何を探してるんだ?」  よく知った、そして仮面の男と同じ声がすぐ背後からした。死者の国であるはずのこの墓場では生きているのはリィンだけのはずだった。振り向けない。とてもではないが、振り向くことなんてできはしない。恐ろしかった。そこにいるのが誰か、認めてしまうのが恐ろしかった。  ぽんと肩を叩かれ、思わず喉から声にならないものが漏れた。肩に乗せられた手は温かい。生きているものの温度だった。 「墓場だから死体か。そりゃ当たり前だよな。悪い悪い」 「……」 「で、そこには誰もいないわけだが」  肩から手が外れる。ほっとしたのも一瞬だった。ぬっとリィンの顔をのぞき込まれる。目が合う。よく知った、頼りがいがあって悪戯な明るさと寂しさを灯した瞳と、目が合う。息も出来なかった。ここで眠る死体のように、リィンは動くことができない。心臓すらもとまった心地だった。 「俺が寝てた方がお前にはよかったか?」   クロウ、違う俺は。  ちがう、という自分の声で目が覚めた。目を開けばここは墓場でもなければクロウもいない。学院へ戻る列車の中だ。見慣れない天井がぼやけた視界に映った。  むくりと起き上がり、窓を見ればまだ暗い。ちかちかと星が瞬いている。ランディはまだ寝ている。当たり前だ。まだ真夜中といっていい時間だ。だが、もう眠れそうにはない。眠ればまた自分は墓を掘ることになるような気がした。クロウの死体を探して、彼の墓を暴いてしまう。  クロウに死んでいてほしいわけではない。もしも、もしも本当に彼が彼のままでリィンの目の前に戻ってくる方法があるのなら、それに縋ってしまうかもしれない。だが、そんなリィンの思いをせき止めているのもまた、クロウだった。  前に進まなければならない。戻ることも振り返ることも自分にはできない。それがクロウがリィンやZ組に託した、最後の願いだから。  その願いを果たすために、リィンはきっと次の夜も墓土を掘るのだ。ごめん、と膝にうずめた言葉は夢の中で肩を叩いたクロウには聞こえない。  するはずのない土の匂いが鼻孔を通り過ぎる。夜明けはまだ先の話だ。