カーテンコール延長戦
 拍手が雨の音に似ている。  なんてこと誰から聞いて、果たして最初は誰が言ったのか。  誰から聞いたはメンバーの中の誰かだった気がするので置いておいて、最初に言った人には特別に「うまく例えたで賞」を授けてやりたい。  そんなことを思いながら新は万雷の拍手が降り注ぐステージへと歩きだした。  音の圧が飲み込むようにして降りかかる。音の粒が、とかいう表現では生ぬるい。質量と輪郭を持った音が新の全身を揺らした。  拍手の雨を浴びながらゆっくり真ん中へと進む。  拍手の主はなにも観客だけではない。ステージの真ん中、0番へと向かう新を見守る共演者も想い思いのリズムで拍手を送ってくれている。  今回は少人数の芝居なので数は多くないが、役者としてのキャリアは新より上の人間がほとんどだ。表には出さないだけで自分よりも経験が浅い新が座長として立つことをよく思わない人も中にはいたかもしれない。それを完璧に覆せたとは思わないが、多少骨のあるやつ、ぐらいには思ってもらえるぐらいには気を張っていたつもりだ。  その気力が報われた気がするのがカーテンコールのこの瞬間だった。  今回の劇場は縦長いが、その分奥行きがない。なのでぐるっと見渡せばステージの上からでも十分観客の顔が見ることができた。  そこにある感情は様々だ。泣いている人、笑っている人、噛みしめるように拍手をしている人、あまり顔に出ていない人も何かしらの思いはそこにあるはずだ。辞書に載っている感情という項目をすべてかき集めたとしてもいま新の目の前にあるそれらすべてを網羅することはできないだろう。  一度として同じものはない光景。何度見てもぐっとこみ上げるものがある。役者と名探偵は三日やったらやめられないというが、三日どころかこの一瞬で十分だ。  いつまでも無言で見ていたくなる。しかしそういうわけにもいかない。  前に進んで深々と頭を下げる。わっと拍手が大きくなった。後頭部に降ってくる拍手はいよいよ豪雨のように頭を打った。 「お芝居って答えがないからね」  だから好きなのかも、というのは夜の弁だった。その時自分はなんと返しただろう。少なくとも肯定はした気がする。  だが、正解がない分不安にもなる。演出家や共演者は道筋を示してはくれるし、助言もしてくれる。しかし本当にこれでよかったのかの答えはいまこの瞬間、カーテンコールのときにしかない。自分の向き合ってきたことの答えがようやくわかる瞬間。  ゆっくりと頭をあげる。舞台にもよるが、今回は座長としてあいさつをする時間が毎回設けられている。  さて何を言おうか。夜や葵は舞台袖である程度考えているらしいが、新は壇上に立って初めて考えるタイプだった。よくそれで考えられるねと葵からは感心と呆れの中間のような顔された。  さて今日は何をと考えて客席をもう一度、今度は奥まで見渡して、視線がぴたりと止まった。  油断すれば声が漏れていたかもしれない。ギリギリ飲み込んで喉がなる程度で済んだ。  だがもし声を飲み込むのに失敗していたとしてもそれは新のせいではないだろう。  一階席の一番奥、出口にほど近い座席。  よく見慣れた顔がそこにはあった。かけている伊達メガネは変装がわりなのだろうが、あまり意味がないようだった。実際彼の近くに座っている女の子たちはすまなさそうな顔をしながら舞台と彼で視線をうろつかせている。あの子たちも悪くない。  なにせプロセラルムの葉月陽である。見るだろう、近くにいたら。 (聞いてないよな……)  見に来るかもとは思っていた。  しかし強制ではないし、各々のスケジュールもある。ただでさえ、陽はいまドラマの撮影中のはずだ。なるべく見学に、とは心がけてはいるものの、スケジュールはままならないときはままならない。実際新もつい先日まで公演があった夜の舞台は観に行くことができなかった。数年前までは当たり前のように足を運べていたのに歳を重ねるごとに密度を増すスケジュールは嬉しいが、うっすらとした寂しさもあった。  だってやはり見てほしいじゃないか。自分の努力を。  それが恋人ならば尚更の話だ。公私混同だと陽はもしかしたら怒るかもしれないが、新からすればそれはそれこれはこれであった。  しかし急にいるというのはなかなか心臓に悪い。表にそういった感情が出ない性分で助かったともいえる。 「新くん?」  後ろにいた一番年の近い男優が心配そうに新をつついた。驚いていた時間はそう長くないとはいえ、さすがに真ん中に立っている人間がなにもせずにいると短い時間であっても気になるだろう。当たり前だ。新が彼の立場でも同じようにしただろう。  そうだ、挨拶をしなければならない。舞台袖で用意をしていない性分があだになるとは。  言葉を探すように客席に視線をさまよわせる。 (あ)  その途中でうっかり陽と目が合ってしまったのは完全に無意識であった。  陽の方も気が付いたのか、伊達メガネ越しの眼が少し丸くなる。だがそれも一瞬のことですぐにせかすようにくいっと顎が動いた。  叱られたような気分にもなったが、同時に目も覚める。いつまでも動揺しているわけにもいかない。  何より格好がつかない、普通に。 「あー、みなさん本日は……」  ようやくいつも通り、共演者には「締まらないけど癖になるよね」と笑われた挨拶を始める。視界の端にちらりと映った陽が満足気に笑っていた気がした。  共演者も少ないこともあり、今回は一人一部屋の楽屋があてがわれている。すれ違うスタッフとねぎらいの言葉を交わしながらようやく新はその楽屋へとたどりついた。 「お、きた」 「陽くん、なんか俺よりくつろいでない?」 「楽屋にばっちり枕持ち込んでるやつに言われたくねぇよ」  それもそうである。実際、ソファでお茶を飲んでいる陽よりも開演十五分前の新の方がくつろいでいるのは事実だった。 「お疲れ様」 「ありがと。……いや、そうだけどそうじゃなくて」 「なんだよ」 「予告は大事だよって話」 「びっくりした?」  陽が珍しく子供のような顔でピースをして見せたものだから「まぁいいか」と思いそうになる。恋人だから、というのではなくどちらかというと物珍しさからくるもののような気もしたが。 「ま、びっくりさせたかったわけじゃねぇけどな」 「あら、違うんだ」 「副産物的な?」 「ではその心は?」 「普段通りの芝居が見たかった」 「ほう、つまり陽の中で俺は陽が来たら張り切ると」 「……なんか変にポジティブな方向に捉えられてる気がすんだけど」  あからさまにしょっぱい顔になる陽には何も言わずに曖昧な笑みを返した。それだけで長い付き合いとなってしまった彼には十分だったらしく、伊達メガネ越しの視線はじとっとしたものになった。 「まぁでも意識はしちゃうかもな。それこそ夜みたいにのめり込んで飲み込まれてみたいなタイプでもないし」 「あいつ、カテコのときも戻ってるか怪しいからな……」 「で?」 「で?」 「どうだった?」  自分で催促するのもどうかとは一瞬思ったが、やはり聞きたいものは聞きたい、同業者としてのアドバイスもそれ以外にも。 「……」 「陽?」 「すげーよかった。悔しいレベルで、正直」 「そりゃよかった」 「お前、ああいう役できんのな。どっちかというと真逆な役ばっかだったじゃん」  今回の舞台は有名な海外のミステリー作家がてがけた作品だ。密室トリックをメインに置いた内容だが、その一方で嫉妬やちょっとした嫌悪などの人間らしい感情を丁寧に描いていることも売りの一つだ。その中で新が演じている小説家は途中まで主人公らしい優男なのだが、話が進むにつれてその悪辣とすらいえる本性があらわになっていく。 「今までイメージなかった役がオファーが来るってことはできるって思われてることだろ?そんでできてるんだからすげぇよ」 「おお、褒めてくれるじゃん」 「俺はいいものは素直に褒めんだよ。知ってるだろ」 「それはもう」  同業者としてはそういうところを信頼していて、恋人としてはそういうところを好ましく思っている。美徳は公私を超えて美徳であることに変わりはないのだ。  さてと、と陽が立ち上がった。見ればすっかり紙コップの中身は空になっていた。 「帰る?」 「連載の打ち合わせ。あ、差し入れさっきスタッフさんに渡しといたから」 「おー。さすが」 「当然。つっても時間なかったからそんな期待すんなよ」  思っていた以上にスケジュールをこじ開けてきたらしい。これをありがとうというべきか、それとも悪いなというべきか悩んでいると扉を開けようとしていた陽がくるりと振り向いた。 「いいもの見れてよかった、し」 「し?」 「かっこいいとこ見れて嬉しかった」  乱暴とはいかずともある程度不自然な勢いで陽はそのまま出て行った。半ばあっけにとられて新は「……おお」と何とも言えない反応を一人になった楽屋で漏らした。  お互いめったなことで気恥ずかしくなるような年でもないだろうにこれをむずむずとした気持ちで受け止めた自分はなんだかんだまだ若いというべきか。  ぼすんとソファに体を投げ出す。  今日が一公演だけでよかった。悪い男の役はもうさすがに店じまいだ。