その空白は埋めるな
「刑事さんいい時計つけてるね」  一瞬、ここがどこかがわからなくなった。さっきまで役として向き合っていた「妙見義孝」が話しかけてきたと思った。  ぎょっとして振り返ればそこには妙見義孝、ではなく、その格好をした長月夜が立っていた。 「え、どうかした?なにか邪魔しちゃった?」  陽が勢いよく振り返ったからか、夜のほうが驚いた顔をしていた。そこまできてようやく、ここがスタジオで今がドラマの撮影の本当にちょっとした空き時間だということを思い出した。  そうだ、機材のトラブルで待つことになったのだ。本当にちょっとした不備だから楽屋に戻るほどでも休憩をいれるような時間でもなく、陽と夜はそのままセットで待つことになった。  その一瞬、夜が席を外して、今になる。 「や、一瞬妙見義孝先生が話しかけてきたかと思ったわ」  冗談めかしてそういえば作中で妙見先生の特等席となっている椅子に腰をおろした夜は首を傾げる。大学の民俗学の教授、という役どころにしては年季のはいったそれはもうすっかり馴染んでいる。こうして妙見義孝とその相棒の刑事を演じるのも特番から数えればもう随分回数を重ねている。 「そうかな。普通に話したつもりだったし、役抜けてない感じでもないけど……」 「逆に抜けてないほうがいいだろ。まだ撮影始まったばっかだし、長丁場だしな」 「それもそうだけど、逆に普通に話してそう見えるんだったら無理に演じよう演じようと意識しないほうがいいのかなって」 「考えすぎだって」  下手に意識をすればかえって薄っぺらく見えてしまうことはある。  だが、こと夜に関してはそんな心配はいらないはずだ。演じようという意識すらないのではないかという役への没頭。憑依型俳優、なんて言われるようになって久しいが、陽からしてもその言葉は過言ではない。  だからこそ先ほどのようなことが起きるのだが。 「で、時計が?」  とはいえ、これ以上余計なことを考えさせる前に話の矛先を変えるべきだ。 「え、あぁ。その時計、陽が提案したんだよね?さっきスタッフさんから聞いた」 「あぁ、これな」  見えやすいようにかざしてやる。チャリと金属が陽の腕でなった。  もう作品も何作か続いており、作中でも刑事としてのキャリアアップは示唆されていた。きちんと年数が作品の中で経っている。  ならばそれをわかりやすく示した方がいいのではないか。今回クランクインする前に陽が思いついたことだった。  とはいえ、ここまで何度かスーツをボロボロにしてきた刑事がいきなり昇進に伴って高いスーツに変えるというのもキャラクターにそぐわない。靴もそうだ。心機一転、髪を切るというのもまぁありだが、このあと控えているドラマの関係で陽は髪を切ることができない。  あまりわざとらしくなく、それでも今まで見てきた人には伝わるような変化。今までの映像を見直し、時には過去の芝居に反省をしながら探した。  夜な夜なの作業の果て思いついたのがずっとつけていた時計をいいものにするということだった。  それとなくクランクイン前に監督や衣装スタッフに打診をしたところ、快く受け入れてもらい、そうして陽の手には時計が光っている。 「それ時計の指定、というか提案も陽がしたんでしょ?今まで使ってたブランドさんの中からだったから助かりましたって、衣装さん言ってたよ」 「さすがに全然関係ないブランドの持っていってもじゃん?」 「でもよくそこまで気が回るなぁって。そもそも俺じゃ思いつかないアプローチだったし」  夜の言葉には素直な感心がある。  だからだよ、とその言葉に返そうとして格好がつかない気がしたのでやめる。夜相手に今更だったが、それでもだった。  勝とうとかそういうことではない。芝居に正解はないし、強いて言うならば見る人の中にしかない。  それでも「長月夜」の横で芝居をするということはいつだって陽の背を伸ばし、同じくらい首筋を焼く。見直している間もずっとそうだった。  それから逃れる術は結局努力しかないのだ。妥協なんて今の陽にとって一番ダサい真似を選びたくなければ。 「陽?」  何も言わない陽の顔を不思議そうに夜が覗き込む。その顔は「妙見義孝」ではなく「長月夜」だが、瞳の奥まで見ればどこかに「妙見義孝」がいる気がした。 「や、妙見先生が夜でよかったなって」 「え、急に?なんで?」 「なんでもいいだろ、ほら始まるぞ」  ようやく戻ってきたスタッフを見やりながらも「気になるって」とさすがに食い下がる夜にごまかすような笑みを返す。その内話すこともあるかもしれないが、少なくともこの撮影が終わるまでは己の首筋を焼くものに関しては夜は知らなくていいことだった。