執行猶予を指折り数える
 これはまずいかもしれない。  陽はライブ特有の浮かれた空気感の中、一人冷や汗をかいていた。  ライブ会場にいるといっても今日は演者側ではない。いわゆる見学という形で、客席側に座っている。  昔のように時間や都合をつけることが難しくなった。それでも都合がつく限りはツキノプロダクションのメンバーのステージ、特に兄弟ユニットであるSixGravityのステージには足を運ぶようにしている。これは何も陽だけではなく、Procellarum、SixGravity全員共通の意識だった。  普段、SixGravityの見学に行くときはコンビ仕事が多く予定をつけやすい夜か、自他とも認める始担である隼のおもりとしてついていく事が多い。  しかし今回は誰とも予定がつかず、珍しく陽一人で見学席へ座ることとなった。  関係者向けの席だ。隣に一般のファンが入ることはない。  ないのだが、このアリーナは構成上、関係者席、壁、客席となっている。壁といっても薄く、最も壁に近い席に案内された陽の耳には横の会話が聞こえるレベルである。  だからといって聞き耳を立てていたわけではない。それはさすがにマナーだし、横にいるのが陽だとは壁の向こうの客は気がついていない。  気がついていないからこそきゃっきゃっと演出がどうだなんだと話しているのだろう。  それだけならまだよかった。楽しそうにしている女の子を見る(この場合は聞くだが)のは楽しい。気になることといえばその好意の矛先が自分ではないことくらいだ。しかしそれは自分の努力不足でもあるので精進あるのみである。  だから初めはまだ陽も微笑ましい気持ちでいたし、自分のファンもこういう会話をしているのかと思ったりもしたのだが、 「しかし長いよねぇ、ゆうも。何年目?」  と春のファンらしいよく喋る子がそう話を切り出してからが問題だった。 「えーと、8年?」 「え!?ゆうさんずっと新くんなんですか!?8年!?」 「そうだよ、高校の時からずっと。新一筋」 「まさかミオがグラビ担になるとは思ってなかったよ……しかも春さん」 「ね?、私その頃は春じゃなくて恋くん可愛い?っていってた気がする」 「ミオさんそれは好み変わりすぎじゃないですか?」 「や、それをいったらあじーだよ。なんで野球選手からアイドルでしかも始さんなの」 「まぁ、人間いろいろありますし……」  どうやら高校の同級生とそのどちらかの会社の後輩という組み合わせらしい。あじーという子の「いろいろ」が気になるのでラジオに送ってきてくれないだろうかと他人ごとのように思う。 「でも8年はすごいですよ。葵くんとかはなんとなーく長い人多そうなイメージですけど、新くんってそんなイメージあんまないかも」 「長いイメージだったらプロセラの海とかじゃない?あとは夜くんとか」 「夜くん、長い子知り合いにいるよ」 「あ、この前舞台一緒に行ってた子?なんかどっちかというと葉月担っぽい感じの」 「そう」  喜べ夜、長いファン歴の子がいるぞ。ついでに俺担っぽいってなんなんだ。 「でも実際どうなんです?新くんのファンって」 「あーだめだめ、ゆう同担ダメだから」 「え!」  え!と思わずあじーという子と一緒に声が漏れそうになった。  いわゆる同担拒否という文化があるのは陽だってよく知るところだ。  アイドルとファンの関係性も人と人だ。人が人を好きである以上、そこには独占欲やそれに近いものが混じってもおかしくはない。陽自身も覚えがある話だった。  だが、いざこうして、話をうっかり耳にしてしまうとなるとどうしたって嫌な汗をかく。 「ダメっていうか……」 「え、いや別にいいと思いますよ!ひとそれぞれですし」 「新担だったらそもそもゆうと会わせてないわ」 「それはそうか。……え、ゆうさん、答えにくかったら全然いいんですけど」 「え?なに」 「新くんのどういうところが好きなんですか?きっかけとか」  答えにくかったらいいですよ、とあじーがもう一度念を押す。  しかしゆうは気にしないらしく、「そうだなぁ」と少し低い声で呟いた。  どう答えるか迷っているのか壁の向こうに沈黙が落ちる。賑やかなはずの会場がひどくここだけ静謐に思えた。  少し、息を吸う音。 「私のヒーローでいてくれるところ」  ああ、本当に彼女は新にずっと恋をしているのだ。  その声でわかってしまう。アイドルとファンとかそんなものとか距離とかはすべて放り出して、どうしようもなく、彼女は新に恋をしている、ずっと。  わかってしまったのは声に乗った感情を陽自身が知っているからだ。  気まずさからの嫌な汗はうっすらとした罪悪感からのものに変わる。これ以上聞くべきか、否か。  感情だけで行けば離れてしまいたい。だが理性は聞くべきだとも囁く。己の選んだ筵がどういうものかを理解すべきだと。知っておかなければならないと。  その筵の存在を知っていてもあのとき、新の手をとったのは欲でも惰性でも臆病でもなく、間違いなく陽自身の決断だったから、なおさら。  だから、立つことはしなかった。 「いいですね、そういうの」  素敵だなぁと話を振ったあじーが羨ましそうな声を漏らす。そのままそれぞれどこが好きかという話題に移っていく。もう微笑ましく聞けるはずのそれを聞きながらぼんやりと会場を眺める。  こんな話を聞いたあとに新に会いたいなと考えてしまうことがもはや感情の取り返しのつかなさを証明していた。隣にいる彼女と同じように陽は新に恋をしていて、隣りにいる彼女とは違ってほしいものを手に入れてしまっている。  本当なら人間として美しいとも思えるその事実がいまはひどく痛い。その痛みをわかっていてでも、陽はどうしたって新のことを手放そうとは思いたくなかった。  少なくとも、今は。