金の卵を産む雄鶏
 薫が卵を産んで五日が経った。卵はまだ孵る気配がない。  産んで、というのは正確ではない。正しく言えばどこからきたのかわからない卵を薫が抱えて眠るようになって五日が経った。  薫自身は卵を産んだのだと主張しているが、さすがにそんなわけがない。薫が男だとか人間だとか、そもそも自身より少し小さめとはいえ、1m弱ある卵を産めるはずがないとか、反論の余地はいくらでもある。それでも薫が「でも俺が産んだんだって」と言うので一旦そういうことにしてやることにした。こういうとき理屈で納得しないのが薫だった。  卵を産んでからというもの薫は卵を抱えるようにしてひたすら眠っている。丁寧に卵にブランケットをかけて眠っている様は抱き枕を抱えているようにも見えなくもない。 「薫」  呼びかけて軽く揺すると薫はとろとろと目を開いた。昔からぼんやりしてよく寝るやつではあるが、ここまでではなかった。異常だ。巨大な卵を抱き抱えているこの状況が異常でなければなんだと言う話ではあるが。 「……なに」 「俺、大学行くけど」 「行かない」 「単位は。お前基礎情報の単位やばいんじゃないの」 「いい」  突っぱねるようにそういうと再び目を瞑ろうとするので慌てて「薫」と体を揺らした。 「いいって、お前さ」 「単位よりもこの子のが大事だから」  薄目のままの薫が卵を撫でる。その手の動きは親とよく似ている。自分の子供を撫でるときの親の手つきだ。 そんな姿を見ているといよいよ俺の方も本当に薫が卵を産んだのではないかと錯覚しそうになる。違う、ありえない。そんなことはありえない、現実的に。 「まゆは行きなよ、遅刻するよ」 「本当に行かないのかよ」 「行かない」  とりつく島もないとはこのことだ。ため息だけを小さくついて「わかったよ」と頷いた。これ以上の問答してもこいつはベッドから動かない。よく知ってる。 「飯は食えよ、置いとくから」 「……で」 「ん?」  ご飯だけ取りに行こうとして部屋を出かけた時だった。小さく声が溢れるのを聞いた。つられて振り向く。  卵を抱えたまま、座った薫がこちらを見ていた。 「薫?」 「……なんで」 「なにが」 「なんで聞かないの」 「何を」 「全部」 「全部?」  意図を掴み損ねていた。薫の言うことに理解が追いつかないのはよくあることだが、それでもここまで完全に意図を掴み損ねたのは久々だった。 「全部ってなんだよ。卵のことか?」 「卵もそう、だけど。それ以外も全部」  わからなかった。薫は何を聞いて欲しいんだろう。卵のこと以外で俺が薫に聞きたいこと、というのは思いつかない。強いて言うなら今日の夕飯は何がいいかとかそれぐらいだ。 「知りたいとか思わないの」  今更?と言いかけてさすがに飲み込んだ。そんなことをぽろりと言えるような顔ではなかった。 「まゆはいつもいつもそう。勝手にわかったような顔して勝手に納得してる」 「勝手にって」 「わかったよって何度言われたと思う」 「……何が言いたいんだよ。わかってほしかったとかそんなこという年でも付き合いでもないだろ」 「それは言わない」  ほっとしたのは一瞬で「けど」と薫が付け足したことにより俺はふたたび困惑に放り出された。  薫はいつの間にか俯いてしまっていた。卵を撫でているその顔は見えない。 「不安にはなる」 「不安?」 「本当に俺のこと好きなの?」  好きの反対は無関心だとは歌詞でも小説でも描かれてきた。それに対して反対も賛同もしていなかったが、いざ自分が近いことを問われれば面喰ってしまうものがあった。  何と答えればいいのだろう。好きだといえばいいのか?そう言っている自分を想像するが、どうにも薄っぺらい。言い訳にしか聞こえない響きだった。  しんと言葉を探す間の静寂が耳に痛かった。それを嫌うかのように「まゆはさ」と薫がその間に割って入る。 「本当は俺よりも俺といる自分が好きなんじゃないの」 「……は?」 「面倒くさくて、手がかかって、まゆとは違ってここから放り出されたらどこにも行く当てがないかわいそうな俺の面倒を見てる自分」  自嘲するような吐息が聞こえた途端、俺は卵のことも忘れて薫の胸倉をつかんでいた。完全に不意をつかれたのか薫は受け身もとれずに卵も守れずに心底驚いた顔でなすがままに俺を見ていた。 「お前な、お前、もし本気でそう思ってるんだったら勝手にわかったような顔をして、勝手に納得してるのはお前の方だろ」 「……」 「同情で一緒にいてくれてると思ったの方が楽だもんな」 「……そうだよ、悪いかよ」 「悪いに決まってんだろ」  燃えるような怒りではなかった。じりじりと端から焦げていくような怒りだった。そう、怒っている。俺はいま怒っているのだ。薫相手に怒るのは初めてかもしれない。 「俺のこと信用できないのはいい。でも勝手に可哀そうがってんなよ。俺の好きなやつのことを」  え、と小さく声が漏れたのを聞いた。 「そっち?」 「お前だって俺が勝手に可哀そうがられてたら腹立つだろ」 「……そりゃ、まぁ」 「そういうことだよ」  薫の白い頬がじわじわと赤くなっていく。照れたら顔に出やすいのはよく知っているが、今照れる場面だったか?胸倉をつかまれたまま?  先ほどの痛いような静寂と違ってどこか緩やかな静けさを破ったのは今度は薫ではなく、ぴしりというあまり聞きなれない音だった。 「あ……」  はく、と驚いた薫につられてすぐ横を見る。  卵が割れていた。  弾みで割れたのではない。自然と割れたのだという割れ方だった。中身に何かいればきっとそいつが出てきていただろう。  だが、中には何もいなかった。何もその中からは生まれてこなかった。  薫はその卵をぼんやりと眺めていたが、やがて合点のいったように「ああ」と吐息を漏らした。 「そういうこと」 「いや、それこそ納得してないで説明しろよ」  薫に言われた言葉をそのまま返す。 「もう必要なくなったから、割れただけだよ」 「必要?」 「うん、それだけ」 「全然わからん。結局なんの卵だったんだ」 「なんだろうね」  いたずらが成功した顔で薫が笑うが、俺にはまるでわからなかった。  何もわからないことが急速に不安になる。今までは別にそれでいいと思っていた。俺と薫は別の人間だから理解できなくていいと思っていた。わからない部分はわからないままで、そのままで。  だが、今までできていたそれが急にできなくなる。あの卵の中身を俺は知らなくてはいけなかったのではないだろうか。 「まゆ?」  薫が不思議そうに俺の顔を覗き込む。そこにはもう卵を抱きかかえていた時のような霞のような表情はない。おいて行かれたような気がした。漠然と。    その夜、俺は夢を見た。暗くて湿っていてけれど温かくて居心地の良いどこかにいる。狭いその空間の中で俺はひたすら眠っている。時折声が聞こえる。  ここはきっと卵の中だ。夢の中の俺は漠然と察する。薫が温めていたあの卵の中だ。ならばつまり、あの卵の中にも俺がいたのだろうか。勘に過ぎないが、あながち間違っていないような気がした。  あの卵の中にいた俺はきっと薫のことをなにもかも理解している俺だ。何せ薫から生まれたのだ。  ではこの中にいればいつか俺にも薫のことが理解できるのだろうか。