トマトの馬車に乗って
 家の前に真っ赤な軽自動車が止まっている。ミニトマトのようなそれは見る人が見ればかわいいというかもしれない。あいにくとトマトが嫌いなわたしにとってはあのぶちっとつぶれる感覚を思い出させるという点でかわいいとかそういう判定から除外されるものだった。  もし、車の主を知らなければ見たこともないその持ち主のセンスを大いに疑っただろうが、この軽自動車の主は十分知人と呼べる関係性の人間だった。しかし私の家の近くで止まっている光景というのをはじめてみたのでいささか戸惑う。 「綺ちゃん」  その戸惑いを消化する前に車の窓が開いて持ち主が顔をひょっこりと出した。会うのは久しぶりだが、変わらずの金髪だ。留年してなければ私と同じく就活生のはずだが、この金髪にスーツで面接を受けているのだろうか。 「文治くん、何してるの。デート?」  近づいて話しかければ「デートってなぁ」となぜか照れくさそうに笑われる。どこにも照れる要素はないのにと思ったが、その照れる要因は私ではなく、兄のほうだろうと思ったのでいらないことは言わないことにする。馬に蹴られて死ぬのは嫌だ。  しかし車の中にはその兄はいない。「怜は?」と尋ねてみるが、文治くんは曖昧に笑顔を浮かべると「綺ちゃんさ」と会話の矛先を私に捻じ曲げた。 「今から暇?」 「え、うん、暇というか、もうここ私の家だし」 「そりゃそうか。……ちょっとさ、ドライブしない?」 「誰と誰が?」 「この状況で聞く?」  二人しかいないのだから私と文治くんしかいないのだけれど聞き返してしまった私のほうが至って妥当な対応だと思う。  何を隠そう阿藤文治は私の双子の兄の恋人だ。 「別に下心ないから安心してよ」 「あったらさすがに引っ叩いてるよ。なに、怜と喧嘩でもしたの」  付き合いが全く無いわけではないとはいえ、わざわざ私を誘ってくるという理由はこれぐらいしか考えられなかった。  文治くんはそれにうんとも違うとも言わずに「まぁ、そんなとこ」と曖昧な返事をよこす。さっきからなんとも歯切れが悪い。どちらかといえばそういう返事が多いのは怜のほうで文治くんは白黒きっちりつけたがるほうなので珍しい。これは何かあったと邪推するにはそれだけで十分だ。 「一個確認なんだけど、私が乗ることでなんか面倒なことになったりしない?」 「しないしない。綺ちゃんに怜が怒るはずないじゃん」 「どうだか」 「兄妹喧嘩したことないんでしょ」 「喧嘩はしたことないけど恋愛絡みだとわかんないじゃん」 「……大丈夫だよ」  はぁとため息をついた。こんなにわかりやすく「何かありました」オーラを出されては断りにくい。そういえば怜は昔から野良犬や捨て猫を放っておけないタイプだった。 「助手席でいい?」 「まじで?」 「自分で誘っておいて言う?」 「いやわりとダメ元だったからさ、びっくりした」  どうぞ、と助手席が開いた。回り込んで乗り込む。甘ったるいバニラのような匂いがした。どこかで嗅いだ匂いだ。 「さーて、どこ行く?」 「ドライブなんでしょ、その辺ぐるっとでいいんじゃない」 「風情ないなぁ」 「そういうのは私じゃない人とやって」  車がゆっくりと発進した。自家用車が大きめのバンなので軽自動車の小ぶりな雰囲気に少しそわそわする。居心地が悪いというより、ただ慣れない。 「元気だった?」 「就活生にそれ聞く?」 「え、綺ちゃんなら余裕でしょ。頭いいし」 「それと面接の受けがいいのはイコールじゃないって知ってる?」 「そりゃ悪うござんした」 「というか、文治くんは?就活してないの」 「してない。実家継ぐの、俺」 「実家?」  初耳だった。 「実家、農家なの俺」 「聞いてない」 「そりゃ言ってないから」 「農家継ぐのに法学部入ったの?」  何を学ぶかは人の自由だが、農家を継ぐことが決まっているならもっと別の、それこそ農学部でもいいはずだ。キャンパスこそ違えど私たちの通う大学には農学部がある。文治くんは大学のときは学びたいものを学ぶというタイプではないし、なんだか彼のイメージと噛み合わない。  文治くんはハンドルを切りながら「あー……」と声を漏らした。 「大学入ったときは継ぐもんか!つって出てきたからさ。親父とも喧嘩したし」 「それがどういう心境の変化で?」 言ってから踏み入りすぎただろうかと後悔をした。慌てて「嫌だったら言わなくていいけど」と付け足せばなぜかとびきりの冗談でも聞いたようにふきだされた。 「え、なに」 「いや、ごめん。怜も同じような反応してたからさ。やっぱり双子なんだなー」  双子なんだなとずいぶん久々に言われた。  私と怜は顔が似ている。幼い頃はずっと一緒にいたせいか思考もよく似ていて、返す反応も言葉もほぼ同じだった。それが変わってきたのはいつからだったか。顔は相変わらずよく似てるけれど、男女の違いか昔ほどではない。思考はもう赤の他人で反応がかぶることもほとんどない。昔はなんとなく嫌だったその言葉も今言われるとくすぐったさとよくわからない嬉しさがあった。言ったのが文治くんなのもあるかもしれない。  ようやく笑いがおさまった文治くんはハンドルを切りながら「別に大した話じゃない」と続きを話す。気づけば車は住宅街を抜け、大学付近まで来ていた。飲み会帰りの学生が騒いでいるのが見える。 「この前家に帰った時にさ、親父と話して家の畑見てたらさ、そういや家の手伝いすんの好きだったなとか、色々思い出して。俺がいるのはこっちだなって。理屈じゃないけど」 「へぇ……」  ちょっと羨ましくなる。就活をしてはいるものの、どこで働きたいという明確なものがあるわけではない。このままいけばなんとなくで就活は終わるだろうし、なんとなくで就職するだろう。ほとんどの人間がそうだろうけれど、文治くんのような「俺はここだ」という経験を聞くとやはり羨ましくなる。私にもそういう何かがあるのではないかと思う。 「だから大学卒業したらそのまま新潟に」 「……まって」  さすがにストップをかけた。新潟、そうだ実家を継ぐのなら。 「怜はどうするの」 「……」 「別れるのもそれは二人の問題だけどさ、でも」  怜と文治くんが付き合い出したのは高校二年生の話だ。同じ塾で面白いやつがいてね、と怜が話してくれたときはまさか付き合うなんてことになるとは思ってなかったし、そのときもそのあとも大して私が何かしたわけでもない。  けれど、文治くんといるときの怜はとびきりの怜だった。思考が似なくなっても、それぐらいはわかる。  怜は本当に文治くんのことが好きだ。  それが自分の夢を優先して別れる、なんて言われたらさすがの私にも引っ叩くぐらいの権利あるのではないだろうか。  思わず手に力を込めたが、文治くんはきっぱりと言い放った。 「別れない」 「じゃあ」 「実は帰った時、怜も連れてったんだ」 「え?」 「俺の好きな人ですって。それで縁切られたらもう帰らないどこうと思って、ショック受けるなら早めのがいいだろ。老人びっくりさせたら悪いし」 「……ごめん、老人じゃなくて私もびっくりしてる」  まさかそこまで話を進めているとは思わなかった。怜も何も言わなかったのに!  そういえば去年、怜が旅行に行くと言っていた時があった。帰ってきて上機嫌だったのはつまり。 「……プロポーズ?」 「馬鹿、そんな大仰に言うなよ」 「でもそうでしょ。文治くんって外堀から埋めるタイプなんだ。へぇー」 「にやにやすんな!」  照れてる人が怒ったところで怖くはない。思わず笑みがこぼれたが、ふとそれではうちの親の顔が浮かんだ。  ごくごく普通の家庭だ。けれどそういう話をしたことがないし、そもそも怜も同性の恋人がいる話はおそらくしていない。自分の子供の性的指向がどうとか、そういうことをきっと気にもしていない。そういう人たちだ。  家に初めて止まっているのを見た赤い軽自動車。それはつまり。 「……お母さんとお父さん、反対したの」 「……」 「それは同性だから?それとも別の理由?新潟に行くから?」 「全部なんだろうなぁ」  ぐっと喉が詰まって、目頭がかっと燃えそうになる。怒ってるのか泣きたいのかわからなかった。どっちもだろう。情けなくて申し訳なくてめちゃくちゃに怒っていた。 「綺ちゃんが悪いんじゃない」 「そうだけど、でも」 「息子が大事なんだなってわかったよ。いいご両親だな」 「いいなんて」 「いい人たちだよ」  繰り返しそう言われてしまえばいよいよ私は何も言えなかった。一番許さなくていいはずの文治くんが許している。私は許せないのに。 「どうするの、これから」 「……うん、そのことなんだけどさ。いまからめちゃくちゃ綺ちゃんに迷惑かけるけどいい?」  嗚咽を堪えてこくりと頷けば「ごめんな」と文治くんが眉を下げた。その顔に初めてほんの少しどきりとして、ああ、怜はこういうところが好きなのかもと納得をする。 「怜のこと、もらってく。逃避行なんて似合わないけどさ、もうあいつがいないの考えられないから、ごめん」 「うん」 「だから親御さんの代わりに許してほしい、綺ちゃんには」 「うん」  車が止まる。気づけば家のすぐ近くに戻ってきていた。家についている明かりの温かさがいまは嘘っぽく見える。  エンジンを切ってシートベルトを外した文治くんはきちんと私の方へ体を向けた。私もそれに倣う。 「綺さん、お兄さんを僕にください」  深々と頭を下げた彼に両親はなんと言ったのだろうか。罵倒するよりも簡単なことがどうしてできないのだろう。不思議でたまらない。 だから彼らに代わって私がやるのだ。 「兄を、よろしくお願いします」  頭を下げる。私の片割れを任せる人に向けて。性別も場所もどうでもいい。理屈を超えた場所にきっとこの車はある。  私をおろして車はそのまま去っていった。怜とは別の場所で落ち合う約束をしていたらしい。遠ざかっていくミニトマトにも似たそれを見て初めて私はトマトのことが多少好きになれそうな気がした。