よるべのこと
 よるべいうのは一般的な意味での頼みとなる人間という意味の「寄る辺」ではなく、俺の友人のことである。  かれこれ幼稚園きりん組からの付き合いとなるので幼馴染といったほうが適切な表現かもしれない。  よるべはその名前に似合わずに頼りなさげに見える姿をしている。小さい頃から線が細いわりに背が高かったが、高校生になった今も縦ばかりが伸びて横にはどうにも大きくならなかった。ひょろひょろとした針金じみた体躯は不健康じみているが、やつは小学生は皆勤賞、中学生はインフルエンザの大流行に巻き込まれ休んだだけという健康優良児そのものである。見た目に騙されてはならないという手本だ。  見た目反して健康では丈夫だが、腕っ節に関しては見た目そのままであった。とにかく弱い。  よるべには四つ下の妹(たよりという名前だ)がいるが、その彼女にすら負けるのではないかという恐るべき弱さだ。  多分俺の家の猫にも負けるというのは俺とたよりの間では定番の冗談であった。  本当なら多少喧嘩に弱くても問題なかっただろう。俺たちが住んでいるのは治安が比較的いい街だ。戦わなければ生き残れないわけでも絡まれるわけでもない。そうそう喧嘩など巻き込まれない。  だが、よるべは違う。喧嘩にも厄介ごとにも人一倍どころか人三倍は巻き込まれる。  これがただ運が悪いとか絡まれやすいとかならまだよかった。よるべ本人が悪いのではない。どうしようもないことはこの世にはたくさんある。  しかしよるべの場合は自分から巻き込まれに行ってぼこぼこになって帰ってくる。絡まれやすいのではない、自分から絡まれに行っている。どうしようもないことはこの世にはたくさんあるが、自分から火の中に飛び込んでいっているのはどうしようもできることだ。  これがもし好奇心とか野次馬根性とかしょうもない理由だったら無理矢理にでも止められただろう。  だが、「女の子が絡まれていた」とか「いじめを止めようと思った」とか仮にも「正しい」ことのために突っ込んでいく人間を止めるのは意外と難しい。 「だってさぁ、ほっとくのも後味悪いでしょ」  そういってへらへらと傷だらけの顔を歪めるよるべを果たして俺は何回見ただろう。  そしてそのたびに「そんなことしてたら」と俺は言葉を返す。 「お前いつか変なのに巻き込まれて死ぬんじゃねえの」 「そうかも。まぁでも人間いつか死ぬし」 「変なのに巻き込まれて死ぬの絶対痛いだろ」 「痛いのはやだなぁ」  いやならやめればいいのによるべはちっともやめる気がない調子でまたへらりと笑った。  その顔は相変わらず青あざや切り傷まみれだ。絆創膏やガーゼは俺がつけたものだが、所詮素人だ。不器用に貼られたそれはかえって痛々しい。  これがいつのものなのかも思い出せないぐらい、そんな会話を何度も何度も何度も繰り返した。よるべはやめなかったし、俺もやめなかった。俺のほうは惰性に近かったが、それでも心配なのは本心だった。幼稚園からの付き合いなどこいつぐらいしかいないのだ。 「大体お前が変なのに巻き込まれて死んだら後味悪いのは俺とたよりなんだ」 「……ミチはともかくたよりが後味悪そうなのはさすがにちょっと気がひけるな」 「このシスコンの恩知らずめ」 「冗談だってば。ミチにも悪いなぁと思うよ」 「あぁ思ってくれ。心配して損したなんて言うのはごめんだ」 「いまのところは?」 「……まぁアイス奢ってもらうしな」 「え?いつ?」 「いまから。ほらコンビニ行くぞ」 「横暴だなぁ」  結局そのあとコンビニに行った記憶はあるが、本当にアイスを買ったかは定かではない。  それぐらいありきたりな会話だった。  そのありきたりな会話にすら仄かな温かさをいまは感じてしまう。そういう当たり前が大事だと失ってから気づく。どこぞの流行りの歌手が歌っているようなそれは間違いじゃない。  よるべの葬式に向かう新幹線の中でどうでもいいような思い出に目を細める俺をよるべは笑うだろうか。  笑わなくても「馬鹿だな、ミチ」ぐらいは言うだろう。悪いなぁと思うかはわからなかった。  葬式の受付をしていたのはよるべのお母さんとたよりだったので俺は少し驚く。たよりはたよりで俺の顔を見て「ミチくん」と目を見開いた。 「久しぶりだな」 「久しぶり。びっくりした。もっと着くの遅くなると思ってた」 「仕事にならなかった」 「……そう」  居た堪れないような、俺に同意するような顔から目を逸らすように帳簿に名前を書きつける。上にある名前は高校の時の担任の名前だった。意外と覚えているものだ。 「あら、みっちゃん。きてくれたの」  別の参列者の対応をしていたよるべのお母さんが俺を見て顔を綻ばせた。その顔はやつれていたが、それがよるべの死のせいなのかはよくわからなかった。 「お久しぶりです」 「久しぶりがこんな形になってね、ごめんなさいね。お仕事は?」 「諦めました」 「あら、よるべが聞いたらきっと怒るわね」 「ですね」 「……たより、落ち着いてきたからみっちゃんとお話ししてきたら?」  思わぬ気遣いに俺とたよりの「え?」という声が被った。 「ずっと朝から動いてくれてるから休憩もかねて。久々でしょう、会うの」 「でも、やること」 「いいの、いいの。さっき姉さんも来たし、それにお父さんを働かせるわよ」  強い調子で言われてしまえば否定もしにくい。そもそも青白い顔をした人間の気遣いを無下にできるような人間ではない。俺も、たよりも。  たよりはしばらく母の顔をじっと見ていたが、やがてため息をついて持っていたペンを置いた。 「……じゃあ、すぐ戻ってくるから。ミチくん、こっち。休憩スペースみたいなのあるの」 「……あぁ」  すたすたと歩いていくたよりの足取りはしっかりしている。なんなら俺よりも。自分の足元を見る。本当にここまできたのが嘘のように頼りない。 「たより」 「なに?」  前をいくたよりは振り返りもせずに歩いていく。喪服のせいか、それとも会っていない年月か、後ろ姿ですら俺の記憶のものよりも大人びて見えた。 「昔、よるべにミチは案外だめだよねって言われたことあって」 「……言いそう」 「言いそうも何も言われたんだ」 「それをミチくん本人に言っちゃうのがよるべっぽいね」 「本当だよ。普通言わないだろ、本人にだめだよねなんて」 「それでなんて返したの?」 「お前に言われたくないって」 「言いそう」 「だから言いそうも何も言ったんだよ」  たよりが止まってこちらを見た。記憶よりも髪が伸びているたよりは随分と大人びて見えた。最後に会ったのは大学に入ってすぐ、彼女が髪を染めたときだった気がする。あの時は「見慣れない」と笑った茶髪はすっかりたよりの地毛のように馴染んでいた。 「なんか飲む?」  休憩スペースとも呼べないそこは自販機とベンチだけがある空間だった。自販機もよくわからないメーカーのもので、あまり見慣れないジュースが並んでいた。 「奢るよ」 「いいのに、別に」 「そういう気分なんだよ」  どれがいいと聞けばたよりは少し悩んでから「これ」とイチゴミルクを指差した。500円を入れてそれと自分用の缶コーヒーを買う。がこん、と重い音を立てて吐き出されたそれはやはり見たことないパッケージだった。 「はい」 「ありがとう。……ミチくん、コーヒーなんて飲めたっけ」 「俺も大人になったってことだな」 「なにそれ」 うふふと堪えきれないようにようやくたよりが笑みをこぼした。社会人だもんね、と続けた言葉も相変わらず笑いが含まれていた。 「元気だった?」 「ぼちぼち。そっちは?」 「ぼちぼちだったよ。……わたしも、よるべも」 「そうか」 「ぼちぼちだったんだけどなぁ」  噛むようにたよりがつぶやく。本当にぼちぼちだったのだろう。 「よるべ、どうやって死んだか聞いた?」 「交通事故だっていうのは」  トラックに突っ込まれて即死だったという。俺がよるべの死について知ってるのはそれだけだ。「死んだ」事実があまりに強すぎて「どうやって死んだか」まで目が向けられなかった。  いまだに死んだことも信じていないというのに。 「庇って、飛び込んだの」 「……誰を?」 「子供、男の子。知らない男の子」  気が抜けた、というのも変な話かもしれないが、へたり込みそうになったのは事実だった。  あまりにもよるべ「らしい」死因だった。  誰かを庇って死ぬよるべ、というのはよるべという人間と少しでも関わりがあれば想像のつく死に様だ。  誰かを庇って、何かに巻き込まれて死ぬよるべ。見知らぬ子供を庇って死んだよるべ。 「……安心した?」 「え?」  一瞬誰が発したのかわからなかった。ここには俺とたよりしかいないから俺じゃなければたよりなのは明らかなのだが、今度はあまりにも俺の知る「たより」とかけ離れた声だった。冷え切った鉄板にも似た声。 「安心した?よるべがよるべらしくて、最後まで」 「安心って」 「したでしょ、最後までよるべはよるべだったんだって。俺の知らないあいつじゃなくて良かったって」  冷えた鉄板が熱されていく。 「人聞き悪くないか、それは」 「ミチくんと私の間で今更人聞きも何もないでしょ。言ってよ、安心したって。よるべが変わってなくて、安心したって」 「……何に怒ってるんだ、お前」  思わずため息混じりにそう聞いてから「しまった」と思った。カッと火がつく音がした。一気に燃え上がるのではなく、じりじりとした弱火が、たよりの感情という鉄を炙っていく。 「何にって全部よ、全部。知らない子庇って死んだよるべにもその死に方に納得してるみんなにも。お母さんだってそう!お兄ちゃんらしいわねって、何それ。何それ!」 「たよ」 「納得なんてするわけないじゃない!だって、だって、よるべは、お兄ちゃんは、1人しかいないのに!なんでそんな」  手に握っていたいちごミルクのパックが落ちる。封を切ってなかったそれは溢れることもなく、2度ほど跳ねるだけだった。 「よるべが死んだのは今でも信じられない。それとあいつらしい死に方ができたのはまた別の話だろ?」 「別の話なわけないじゃない。どっちもよるべっていう人間の話をしてるの。なんでミチくんもわかってくれないの!なんでみんなと同じこと言うの!」 「じゃあ言うけど、お前はよるべにその男の子を見過ごせって言えるのか?」  ぐっとたよりの喉が鳴ったのが聞こえた。 「言えないだろ。そんなことすればあいつは一生後悔する」  何度も何度も傷だらけになったよるべを止められない理由はそれだった。  あの行動を止めるタイミングなんていくらでもあった。それでも止めなかったのは俺のその行動がよるべという人間の矜持やいままでのあり方を否定する可能性があったからだ。だから忠告はしても強くは止めなかった。 「ミチくんはよるべに生きててほしくなかったの」 「生きててほしかったに決まってる」 「好きじゃなかったの」 「好きだったよ。好きだ、今でも」 「じゃあなんでみんなと同じように納得なんてしてるの」  簡単な答えだった。 「俺はよるべの生き方を愛してたからだ」  それを損なってまで生きていてほしいとは思えなかった。  よるべがよるべのままで最後まであるべきだと思った。簡単な、それだけの話だ。 「みんななんてどうでもいい。そんなものは知らない。ただ、俺はよるべによるべらしくいてほしかった。それだけだよ」 「そんなの、ただの屁理屈」 「……そうかもな」  屁理屈ではあるだろう。俺はまだよるべが死んだことをきっとうまく認識できていない。だからそうやって無理矢理見ないふりをしているだけかもしれない。よるべがいないという現実を骨の髄まで思い知った頃、いまのたよりのようによるべの生き方よりも生きてほしかったと泣くのかもしれない。 だけど少なくともいまはよるべの死に方を否定する気にはなれなかった。それがあいつを止めなかった俺にできる餞だと思った。 「馬鹿」 「うん」 「馬鹿、みんな馬鹿。よるべもミチくんも馬鹿」 「うん」  言葉をぶつけながらたよりは落ちたいちごミルクのパックを拾い上げようとしゃがみこむ。  その指先がパックに触れてそれからしばらく動くことはなかった。しゃがんで、立ち上がれずに、肩を揺らして嗚咽する彼女にかける言葉を俺は持たない。これはきっといつかの俺の姿でもあるからだ。 「わたしも」 「うん」 「わたしもいつか納得できる日がくるの」 「しなくてもいい、してもいい。それはたよりが決めることだ」 「ミチくんってさ」 「うん?」 「よるべがいなかったら優しくないね」  ミチは案外ダメだよね。  よるべがそういって笑った声と重なる。もう聞こえない声と重なる。 「ああ、そうだよ」  俺はお前がいないと優しくないし、ダメなんだ。   なんで死んだんだよ、と今更言いたくなって、たよりが少しうらやましくなった。