あまりに餅を詰まらせて死ぬ人間が後を立たないので調べたところ、どうやら餅には意識があるらしいということがわかった。
意識といっても個体ごとに存在しているわけではない。「餅」という一つの意識が存在し、個々の餅はそのマザーコンピューターともいえるような意識の手足のようなものらしかった。
知能という面ではさほど高くはない。子犬程度のものだ。
しかし問題は知能うんぬんではなく、異様なまでの殺意を彼、彼らが持ち合わせていることだった。
誰かが憎いというわけでも餅以外の生物への反逆や支配を目論んでいるわけでもない。
ただ目の前にいる生物の息の根を止めてやりたい。
餅の持っている感情は本当にそれだけだった。殺したからといって達成感や喜びがあるわけでもない。
純粋な殺意の塊、それが餅であった。
そんな殺意とコミュニケーションがとれるわけもない。そもそも彼らにはどうやら言葉という概念もない。殺すだけの相手と意思の疎通をしたところでしょうがないので当たり前と言えばそうである。
なので餅に意識があることを発見した研究チームは最初から意思疎通をあきらめ、その殺意を投薬などで薄める方法探していたのだが、世間はそうではなかった。
意識があるとわかった途端、餅はただの正月の風物詩ではなく、何かしら保護をしなければいけない「いのち」へと変化した。
意識があるなら人権、いや餅権を守られるべきだと訴える団体、一つの巨大な意識があるというスピリチュアルめいた生態に惹かれた宗教法人、有志以来餅に人間は殺されてきたのだから断絶すべきだと吠える反餅主義者、はたまた餅をペットとして飼い始めるもの。
餅に対する世間の蠢きは一大ムーブメントとかしていた。
だが、その動きの終焉は突然訪れた。
街中でたまたま激突した餅保護団体と反餅主義団体のいさかいにより死者が出たのだ。
亡くなったのは殴り合っていた餅保護団体と反餅主義者に突き飛ばされた3歳の男児だった。
関係ないところで死者が出たという事実は餅ムーブメントに冷水を浴びせかける結果となり、これまでのような熱狂的な運動は落ち着いていった。
ここまでの一連の騒動は餅騒動とよばれ、やがていきすぎた流行りの例として教科書に載るところにもなった。
後日、ムーブメントにより男児が亡くなったことを餅に聞かせた研究員がいた。
動かないはずの餅がその事実に一度跳ねたとその研究員は報告をしたが、その記録はすぐに削除をされ、真実はどこにも残っていない。