川に人魚がいたものだからさすがに驚く。  人魚がいるのは海とか、せめて湖ではないのか。それが川。  しかも決して綺麗な川ではない。さすがにドブ川というわけではなく、街中に流れる川としては比較的綺麗な類だ。  しかしそこで泳いでいるのはイルカでも美しい熱帯魚でもなく、捨てられて巨大化した鯉となんだかよくわからない土色の魚だ。  なぜこんなところに、と思って橋から見つめていると気付いたのか人魚はその艶やかな赤が映える唇は柔らかく緩め、手を振ってきた。  つられて振り返す。  基本的に人魚というものは美しい生き物だ。たとえつやつやとした髪がうっすらと泥で汚れ、宝石と同等の価値があるという鱗によくわからない藻が絡んでいてもその美しさは損なわれない。  美しい生き物から親しげに手を振られて悪い気がする人間はそう多くないだろう。  人魚はこちらへ手を振っていたが、不意に水の中へ姿を消した。浅瀬に見えていたのだが、人魚が潜れる程度には深さがあったらしい。  しばらく人魚の消えた水面を見ていた。人間なら呼気の泡が浮かんでくるところだが、水は時折鯉がぬらりと育ちすぎた巨体を見せる程度で静かなものだ。  人間なら心配になる程度の時間が過ぎても人魚は顔を出さない。  飽きてしまったのだろうか。まぁそういうこともあるだろう。どうせならもう一目ぐらい拝みたかったが、さすがに水辺にこれ以上居続けるのも寒い。  諦めて立ち去ろうとしたとき、ふと、川の淵に靴が落ちているのが見えた。  有名ブランドのスニーカーが一足、ころりと転がっている。  川遊びをした誰かの忘れ物なのだろうか。彼も人魚に会ったのだろうか。  びゅうと、早く立ち去れと言わんばかりに木枯らしが吹いた。  寒い寒いと身を縮めたので気づく余地もない。  転がっていたスニーカーが泥とは違う赤茶で汚れていたことなど気づけるはずもなかった。